豪快すぎる予防接種

アメリカにおいて、子供を保育園なり学校なりに通わせようとするならば予防接種が必要なのである。
「これこれを打ちましたよ」
という証明が無ければ保育園に入園することまかりならぬ、という感じ。
ならば早めに病院に行かなきゃね、と言ってはいたものの、病院で接種すると300ドル近い出費になるという話を聞いてしまい、しばらく二の足を踏んでいたのだった。

で、最近聞いた話によると、「Metropolitan Health Department」なる機関(要するに保健所?)では無料で接種してくれるとか。
研究所スタッフMさんは言う。
「うん、無料のところがあるのは知っていたのよ。知ってたんだけどね、数年前の留学生のご家族に"こういう無料のところもあるわよ"とお教えしたら、"バカにするな、そういうところは貧民層が行くところなんじゃないのか"ってすごい剣幕で怒られちゃってねぇ……。何だかそれ以来、口にするのを躊躇してしまって」
とのこと。実際、ヒスパニック系や黒人が多く訪れる施設ではあるらしい。が、別にそんなの関係ないじゃないの、無料な事は良いことよ、と、全く意に介さない私とHさんは二人でそれぞれの子供を連れて「Metropolitan Health Department」へ行ってみたのだった。

午前9時。施設はいかにも保健所という感じの、会社と病院が半分入り交じったような雰囲気のところだった。奥まった一角のドアの中、カルテが並びまくっている棚を前にしたカウンターと、その手前にはベンチが並び、テレビが1つ。およそ殺風景だったその部屋のカウンターに向かって「Can I take immunizations here?」などと伝える。予約はないのよ、初めてなのよ、と。

話は至極簡単だった。
カウンターに置かれた紙に子供の名前と生年月日を書き、母子手帳を渡す。念のために表にして持っていった接種履歴と病歴を書いた自作の紙(一応母子手帳にもそういう部分は英単語が記されているけど、そこには和暦が記載されていたりしたので)を渡し、あとは住所確認用に免許証を見せるだけ。パスポートのチェックなどは一切ない。ソーシャルセキュリティーナンバーを問われたが、持ってないのよ、と言えばそれで通った。
おいおい、これで良いんかい、これでタダなんかい、と笑っちゃうほど簡単な手続きだった。保険の有無すら聞かれない。

そして20分ほど経った頃、Hさんとその娘さんと共に私と息子の計4人が別室に通された。医療器具はほとんどない、でも診察室という雰囲気の小部屋だ。そこで女医さんにいくつか口頭で質問を受けた。
「アレルギーは、ある?」
「今まで予防接種で何かトラブルは?」
「この1年に大病をしたかしら?」
「HIV感染者と身近に接触したことはある?」
などなど。

そして告げられた。
「今日は4本、打ちますからね。これと、これと、これと、これ。あと、ツベルクリン反応、日本でやってきたというのはわかるけど、これも打たせてくれる?」
よ、4本、ですか。
話には聞いていた。アメリカの予防接種は何本もいっぺんにブスブスやられるのだと。覚悟はしていたけど……息子よ、すまん。やっぱり4本だってさ。4歳児の息子が4本、1歳児のHさんのお嬢さんも、やっぱり4本。

で、ここで各親子が別室に分けられた。我が家の担当は、金髪の化粧の濃い白人のおねぇさん先生だ。
ジェスチャーをまじえながら説明してくれた。
「One、two(と左の肩を叩く), another one, two(と右の肩を叩く), last here(と、左の肘の内側を指さす).」
……つまり、左の肩に2本、右の肩に2本、そいでもって肘の内側に1本打つ、ということらしい。
「OK?」
「おっけーおっけー」(もうどうとでもしてください、という気分)

すごかったすごかった。 ざらりとテーブルに置かれたのは数々のアンプルと何本もの注射器。バンドエイド4枚、袋入りの"おてふき"のような消毒薬。バンドエイドをすぐに貼れる状態に並べ、注射器をセットし、
「ハァ〜イ、OK?」
と女医さんが迫ってきた。子供でなくても、これは怖い。事態を察して"OKじゃない!"と息子は泣き暴れ始めた。私が一人で抑えるのに必死、という暴れっぷりだ。目の前に並ぶ5本の注射。これが全部自分に刺さるのかと思うと大人でも泣きたい気分だ。

女医さん、溜息をついて苦笑いし、大声で
「マァ〜ム!」
と奥に向かって声をかけた。
そのとき、私の耳には"ジャイアンの登場テーマ"が確かに聞こえてきた気分だった。
やってきたのは、推定体重0.12トンといった感じの恰幅の良い黒人のおばちゃん。いかにもマム、という感じ。
「ハァ〜イ、プリティボゥイ♪」
おばちゃん、息子をがっしと抱え込んだ。逃げられない息子。迫り来る注射針。
「はい、お母さんはこっちから手を回してサポートしてね」
みたいな事を言われ、私は胴回り150cmほどありそうなマムの背中側に手を回しつつ息子の両手をしっかとホールドした。

もう、それからは"ここは農場ですか?うちの息子は牛か馬ですか?"、という感じ。
問答無用に肩に一発ブスリと針を刺してはピッとバンドエイドを張り付ける。もう一度そのすぐ脇にブスリ、ピッ。息子を180度反転させて、もう片方の肩にもブスリ、ピッ、ブスリ、ピッ。あっという間の出来事だった。最後にとどめとばかりに腕にツベルクリン反応の注射。
日本では、針は斜め下から皮膚に入る角度を浅めにして注射を打つもんだけど、こちらは違う。針、直角にぶっすりと奥まで挿入されるのだ。あああ、痛そう痛そう。
「OK、OK、プリティボゥイ♪」
マムは暴れ泣く息子に全く動じず、息子をホールドしまくっていた。私はというと、まるっきり躊躇なくブスブスと刺さっていく針に気が遠くなりそうだった。すごいわねぇ、ワイルドだわ。

「ツベルクリンの反応見るから、水曜日にまた来てね。あと、1ヶ月後に続きの注射あるからまた来るのよ」
と、注射履歴が記された診察券を手渡されて、この日は終了。かかった時間はたったの1時間半、かかった金額はゼロ。なんともお手軽な内容なのだった。

ちなみに、息子が日本で受けていた注射は
 ツベルクリン反応検査→BCG
 三種混合1回〜3回(4回目は未)
 ポリオ1回(2回目は未)
病歴は
 水疱瘡
 おたふく風邪
というところ。
日本では無精していてしまい、本来打たなきゃいけないものをかなりサボっていたのだった(おかげでしっかり水疱瘡などにかかってしまっていた)。

それに対して今回打ってもらったのは
 DTP(三種混合):4回目
 Polio(ポリオ):2回目(来月に3回目がある)
 M-M-R(麻疹・風疹・おたふく風邪の混合ワクチン):1回目(来月に2回目がある)
 Hep B(B型肝炎):1回目(来月に2回目)
 PPD(ツベルクリン反応)
日本では打つことのないB型肝炎などの注射もブスブス打たれたのだった。ポリオも経口ワクチンじゃなくて注射だし。

待合室には実際、非白人の割合が多かった。けど、「貧民層が来るところ」なんて空気は全然感じられなかったし、対応もものすごく良かったのだ。
そして来月、息子が打つ予定の注射は3本。がんばれ、息子。

「注射5本」の翌々日、ツベルクリン反応を見せに再び保健所を訪れた。

ついこの前日あたりに知ったことだけど、アメリカにおいてツベルクリン反応の陽性陰性に対する考え方は、日本と180度違うらしいのである。

日本の場合
ツベルクリンを打つ
→ 陰性の場合、BCGを打って結核の抗体を作る
→ それゆえに通常は陽性と出る

アメリカの場合
ツベルクリンを打つ
→陰性になれば、OK。何もしない
→BCGを打つ習慣はないため、陽性になった場合には"結核菌に汚染されている"と診断されてしまう
→「BCGを打ってるから」と申告しても、レントゲン撮影をして納得してもらうか、あるいは"念のために"と結核の治療薬を飲めと勧められてしまうことも(!)

日本人は、ツベルクリンで陽性になるのが当たり前なのだから、レントゲンだの薬で治療だのというは私たちにとっては何とも馬鹿げた話なのだった。こうなったら、何がなんでも陰性として通っていただきたいところ。息子の腕に「腫れるな腫れるな、赤くなるなよ」と祈り(呪い)をかけ、更に不安な英語力をカバーしていただこうと夫も引き連れて保健所に行ったのだった。

Hさんの娘さんの腕は、ぽちっと赤くなっていた。息子はどういうわけだか少しも赤くなっていない。お前、BCGの抗体はどこに行ってしまったんだ、という感じ。
女医さんは「OK、OK♪」と息子の腕に頷き、「Negative」と大きく紙に書いてくれた。Hさんの娘さんの腕には首をかしげたあと、メジャーを当てて頷き、「オゥケ〜イ」と笑顔になった。2人とも、なんとか陰性として通った模様だ。
かくしてこの日は「レントゲン取ってらっしゃい」も「結核の治療してね」も言われることなく15分ほどで診断は終了した。あとは、1ヶ月後。